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『口承~こうしょう~』
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「旅行……っていうのも変よね」
街を見下ろしながら、女の人はつぶやくように言った。
「きみ、学生やってるの?」
「え――、あ、はい」
いきなり質問をされて戸惑った。少し裏返った声で返事をしてから、中学生です、と言った。
「へえ、まだ義務教育なんだ。だったら、夏休みってまだ先じゃないの? それに今日は金曜日。全国的に平日だよね」
「そうですけど今日はあの――」
何と答えればいいのか分からなくて語尾を濁した。女の人は言いたくないならいいけどねー、と笑いながら言った。
別に、言えないような事情があるわけではない。ただ、今日学校を休んだ理由、この場所に来たわけを説明するのは面倒に思えたし、このひとにあまり気を使わせたくないのだ。
「……そっか言いたくないか」
女の人はため息をついて、そしてわたしのことをじっと見てから、
「じゃあ、家出少女ってことでいいかな」
と言って楽しそうに笑った。
「そ、そんな、違います」
「気にしない気にしない。言いにくいなら、その方が都合いいでしょ」
言いにくいわけではない。
「確かに言いにくいと言えば言いにくいんですけど、それは言葉にしにくい、っていう意味で、やましいことが有るわけじゃないんです」
慌てて口から滑り出てきた言葉は、自分にもよく分からない、おかしな言葉になった。
「そんな、弁解しなくてもいいのよ。だいたい、見ず知らずの怪しい女に誤解されたところで、きみは痛くも痒くもないでしょ」
この人は多分、細かいことは気にしない性格だ。わたしなら見ず知らずの人にだって、偶然すれ違った、もう二度と会わないであろう人にだって変な風には思われたくないのに。
だけど、ガサツな性格なのかと言うとそうでもないだろう。喋っていて全然そんな感じはしない。
「あの――」
ん、なに? と女の人は首を傾げる。肩より少し下まで有る、染めているのだろうか茶色がかった髪が、さらさらと流れた。
「あなた――、は、どうしてここにいるんですか?」
この人だって訊いたのだ。わたしにだって尋ねる権利は有るだろう。わたしは――、答えなかったけれど。
「やだなぁ、あなた、なんておかしな呼び方。初対面のひとにあなたっていうのは、ちょっと堅苦しいなぁ」
そうだろうか。わたしには、他にいい呼び方が思いつけない。この人と同じようにきみ、と呼んだのでは、さすがに馴れ馴れしいだろう。
「きみは年下なんだから、あたしのことはお姉さん、だね」
それは馴れ馴れしくないだろうか。
少なからず抵抗が有ったけれど、とりあえず呼んでみる。
「お姉さん」
すると女の人――お姉さんは、なぜか不服そうな顔になった。
「やっぱりお姉さんはやめよう。きみには合わないね。じゃあ、リエコさんって呼んでみて」
この人はリエコという名前なのか。それにしても、自分で言い出しておいて、リエコさんは身勝手だ。
「リエコさん」
「そうそう、これがしっくり来るよ」
リエコさんは嬉しそうに笑った。
さっきからリエコさんはよく笑うけれど、元々美人のリエコさんは、笑うと更に美人になる。
少し――、うらやましい。
「それで――えっと、わたしがここに来た理由はね、この丘が好きだから」
そう言ってリエコさんは街を見渡した。
「わたしの婚約者がこの穴場を知っててね。そいつはいい眺めだから、ってわたしをここまで連れてきて――、それから、ここの景色が気に入っちゃって、よく一人でも来てるの」
4
リエコさんは、何でもないように「婚約者」という言葉を使った。
それは確かに、リエコさんにとっては何でもない言葉なのかも知れないけれど、わたしにとってはリエコさんとの距離を痛感させる、そんな言葉だった。
「そういえば、きみ」
思い出したようにリエコさんは言った。
「この丘の名前、知ってる?」
知りません、と首を振って答えた。リエコさんはにわかに嬉しそうな顔をした。
「そりゃあそうだよねー。あたしだって知らないもん」
「知らないんですか?」
「地図を見れば書いてあるのかも知れないけど……。まあ、調べればきっと分かるわね」
だけど、とリエコさんは付け加える。
「そんなの絶対に調べちゃダメ。もし、何かの弾みで知っちゃったとしても、すぐに忘れなさい」
冗談めかしてリエコさんは笑った。
背後の雑木林で蝉が鳴いている。今まで黙っていたのか、それとも、ずっと聞こえていた蝉の声に今更気付いたのか、分からない。
「どうして……ですか?」
この高台は風が涼しいせいか、坂を歩いた時の汗はすっかり引いていた。陽射しは相変わらず強いけれど、眩しいだけでそれほど暑くはない。
「ここは、今から新しい名前になるから」
リエコさんは言い聞かせるようにゆっくりと言った。
街に背を向け柵にもたれかかったリエコさんの薬指には、ささやかに宝石が光る指輪がはめられている。
「そこに、像があるでしょ」
わたしが何か言うよりも先に、リエコさんはわたしの後ろを示した。振り向くとそこには、確かに像が有った。白いから、石膏の像だろうか。
雑木林のすぐ前に、おそらく等身大の女性の石膏像。風に靡いたような衣を羽織って、片腕を前に差し出している。
さっきリエコさんが上ってきたという階段から見れば分かったのだろうけれど、わたしの出てきた位置からでは分からない。その像はそんな、今にも木の枝に飲み込まれてしまいそうな奥まった場所に立っている。
「あれね、延ヶ丘女神像っていうんだって」
リエコさんは歩き出して、女神像が立っている四角い土台に腰掛けた。
だからここは――。
リエコさんが言う。
「延ヶ丘っていうのよ」
5
延ヶ丘女神像は真っ白で、陽の光を受けて眩しいほどだ。最近作られたものなのだろうか。
リエコさんは石膏の足を触りながら、「変なネーミングよね」と言った。
わたしは、
「新しい名前が――、それなんですか」
と言った。できるだけぶぜんとした声音で。
リエコさんが勝手に先のほうへ進んでいってしまっているように思えたからだ。
「そう。この像が、街に向かって手を差し延べているように見えるからなんだって」
リエコさんはやっぱり、わたしよりも一歩先に進んだ所で喋っている。
一歩後ろで聞いているわたしには、リエコさんの言葉が真っ直ぐには入ってこない。リエコさんの話し方があまりにも親しげだから、真っ直ぐには入ってこないその言葉が余計にわたしを遠ざける。
思わず、まだ何か話しているリエコさんに向かって質問した。
「その、延ヶ丘って、誰が考えた名前なんですか?」
話を中断されたリエコさんは、喋っている顔のまま固まった。一瞬の沈黙が不安になって、リエコさんがつけたんじゃないように思えたので、とぼそぼそと言い訳がましく言った。
リエコさんの表情に動きが戻る。
「誰って……それは、この像を作った人」
予想どおりの答え。それでも、リエコさんが一歩後ろに下がってきてくれたような気がした。
これで、安心してリエコさんの次の言葉を待つことができる。
だけどリエコさんは、
「――そういうことだから、ここは延ヶ丘。きみも誰かにこの丘の名前を訊かれたら、ここは延ヶ丘だよ、って言うの。分かった?」
そう言って、唐突に話を終わらせた。
リエコさんにしてみれば唐突に話を止めたのはわたしの方だったのかも知れないけれど、まだ話を聞いていたかったわたしには、何か物足りない。
「あの――、この像を作った人とは知り合いなんですか?」
分かった? には答えず、問い掛けた。ここで、はい、そうしますなんて返事をしたら、この話題が終わってしまうような気がしたからだ。
「うん、そう。そいつとはね、ここで知り合ったの」
リエコさんは目を細めて、上の方を見た。その先にはきっと、女神像の延べられた腕が有る。
婚約者じゃないんだ……。
てっきりわたしは、像を作ってここを延ヶ丘にしたのはリエコさんの婚約者だと思っていた。婚約者にこの場所を教えてもらったのなら、この場所で知り合ったというのはまた別のひと、ということになる。
いつの間にか蝉は鳴き止んでいた。代わりに雑木林では、鳥の声が途切れ途切れに響いている。
「そういえば、あいつはここに来る時、きみと同じで林の方から上がってくることが多かったな。だからきみが出てきたとき、もしかしたら、って思って――、驚いたわよ」
リエコさんの言い方は、何か変だ。
「もしかしたら、っていうのは……」
はっとした顔に、リエコさんはなった。そして、像の顔を見上げて言った。
「あいつは、もういない」
風の音に掻き消されそうな。リエコさんの声はそんな、弱々しくて、小さな声だった。