蛇の目女の怪 4-6

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 駅のホームで電車を待っていると、蚊の鳴くような声がおれのことを呼んだ。
「木戸くん」
 本当にそう言ったのかは分からない。しかし確信はある。この声がこうやって響いたならば、そう言っているに違いない。田畑と一緒にいるうちに、自然と培われた翻訳機能。
 こんなことが前にもあったな。
 そうだ。昨日、同じ声を聞いたばかりだ。
 今と同じように電車を待っていたおれは、今と同じように声をかけられた。右隣に目をやると、田畑は雨も降っていないのに緑色の傘を持っているのだった。
 これ、返すね。蚊の鳴くような声で、おどおどと。あんな態度をとるのは、眼鏡の地味な田畑のはずなのに。コンタクトのきれいな田畑は、見た目に似合わない態度で言った。
 そんな態度が懐かしくて、おれはなんだかどぎまぎしていた。それでも、意地のほうが勝ってしまったのだ。
 いつかおれの渡した傘を差し出してくる田畑。そんな彼女を、おれは冷淡に追い返した。
 まだ持ってたのかよそんなもの。いらないんなら、捨てちまえよ。おれだっていらないから。
 傘を胸に抱いたまま、田畑は走って行った。我ながらひどい対応だったと思う。あの後姿が、泣いていないはずはなかった。消えてしまいそうな後ろ姿を見て、おれは決めたんだよ。
 次に会ったら謝ろうって。
 その田畑が、今日も右隣にいる。一日ぶりの再会は思った以上に気まずくて、おれはなかなかその姿を見ることができなかった。
「ぐ、偶然見かけたから」
 おれが何も言わないうちから、田畑は言い訳じみたことを言う。
「ごめんね、しつこいかな。あの、傘ね」
 ぞわり。
 嫌な気配。
 和傘の気配が、すぐ右隣から。気味の悪い空気の中、おれは歯を食いしばりながら田畑の方を見た。得体の知れない負の感情と、意味も分からない覚悟とを持って。
 そこには。
「ごめんね、今日も、持ってきちゃった」
 眼鏡をかけた、地味な服装の小動物みたいな田畑が、緑色の傘を握りしめていた。安堵と緊張とが織り交ざって、息をするのさえ忘れそうになる。
「かっ、返そうと思ったわけじゃないの。雨だったから」
 怯える田畑の姿は、久しぶりに見る化粧気のない田畑の顔は、驚くほどかわいらしい。
「あのさ、田畑」
 言いながら、目をそらした。
「どうしたんだよ、その服装」
「これ? あ、あのね、わたしにはこっちの方がお似合いかなって」
 自虐的な言葉。
 どうして急に、飾らなくなったのだろう。どうしてあの時、飾っていたのだろう。誰に見せるつもりだったのだろう。
 もしかすると、田畑もおれと同じ気持ちだったのかも知れない。おれは、田畑にとって恋人だったのだろうか。
 あの、きょとんとした顔は、おれが去った後に泣いたのだろうか。
「そうだな、似合ってる」
 詰まる空気。田畑の無言が聞こえるようだ。
 田畑がはじめておしゃれな服を着てきたとき、おれは何と言ったんだっけ。
やっぱり、今と同じようにどうしたんだよと聞いて。それから、きれいじゃないかと言った覚えがある。田畑は照れながらも、すごく喜んでいたな。
「田畑はさ、そういう格好のほうが似合うんだよ。少なくとも、おれはそのほうが好きだ」
 本心だった。
 地味なほうが似合うだなんて言われて喜ぶやつはいないだろうし、着飾ってきて似合わないと言われれば誰だって傷つくだろう。本音とはいえこんなことを言うなんて、おれはつくづく無神経なやつだ。
 見ると、田畑は俯いている。どんな表情をして、どんな気持ちでおれの言葉を聞いていたのか、想像もできない。
「そういえばこの間、他に好きな子ができたって言ったよな」
 間もなく列車が到着します。アナウンスの声。
「あれ、実は嘘なんだ」
 緑の傘が、ぴくりと振るえる。それきり、おれと田畑との間にはどんな言葉も生まれなかった。
 いや、もしかすると、田畑は何か言ったのかもしれない。停車する電車の音の前では、田畑の小さな声が聞こえるはずもないのだ。
 
 
 雨足は強くこそならないけれど、弱くなる気配もない。頭上の傘はさわさわと一定のリズムで鳴りっぱなしだ。アパートの階段を上り、鍵を外して自室に入ると、湿気の多い玄関が出迎えた。
 壁に傘を立てかけ、鍵をかけてから明かりをつける。少し散らかった廊下にカバンを投げ置き、その奥の居間へ。
 普段なら、テレビの電源を入れてあてもなくチャンネルを回すところなのだけれど、今日はそういう気分にはなれなかった。田畑のことで頭がいっぱいなのだ。
 どうすれば寄りを取り戻せるのだろうか。電車を降りてから――いや、田畑と会ってから、おれの頭はそればっかりだ。田畑はまだおれのことを完全には嫌っていないようなので、脈がないこともないだろう。だけど、一方的に振っておいて、やっぱり撤回しますと言うのでは、身勝手にもほどがある。それこそ本当に嫌われてしまいかねない。
 すっかりぺしゃんこになった布製のソファに、身を丸めて寝転がる。身を丸めないと寝転がれない大きさなのだ。
 今となっては、田畑を振ってしまったことが後悔されてならない。いったいどうして振ってしまったのか、そんなことに気づいたのでさえ、今日の田畑に会ったときなのだ。それまでは、ただ漠然と、冷めてしまっただけだと思っていた。
 田畑には嘘だと言ったけれど、他に好きな子がいたのは本当だ。地味な田畑。おれは、ずっとあいつに恋していたらしい。きれいな田畑は、おれにとっては別人だったのだろう。
 ポケットから携帯電話を取り出す。田畑に電話をかけるのだ。何を言うかは決まっていないけれど、早く何かを話さないと、手遅れになってしまうような気がするから。
 その時。
 手に取ったばかりの携帯電話がヴァイブレーションをはじめる。メールが届いたらしい。
 田畑か? ただごとではない期待を胸にメールを開くと、天宮雷造の文字。
「おまえかよ」
 思わず声に出してしまった。タイミングが良すぎるだろう、この野郎。
 件名は『わかったぞ!』。溢れ出んばかりの落胆を胸に本文を読む。
『あの傘の名前がわかったぞ! あれはカラカサじゃなくって、蛇の目傘っていうらしいぞ。いやあ、すっきりしたな』
 最後にピースサインをつけている所が憎らしい。
 ヘビの目って。ところであの傘っていうのは――
「ああ」
 忘れていた。
 あの、赤い傘のことだ。何度も見かけた気味の悪い傘。田畑のおかげで忘れかけていたのに、思い出してしまったじゃないか。
 思い出すと、急に恐ろしい気持ちになる。なにせ、おれは今、一人なのだ。こんな時にあの傘が現れてもみろ。おれは――
 玄関の方に目をやる。
 あるはずがない。あるはずがない。だってここは家の中だぞ。鍵だって閉めたんだ。入ってこられるはずが。ないはずなのに。
 そこには。
 赤白の和傘。おれの紺色の傘の隣に、当たり前のように立てかけられたヘビの目傘。
 おいおい、こりゃあ、いよいよホラーじゃないか。
 おれは悲鳴が出るのをなんとかこらえて、携帯電話を操作した。電話をかけるのだ。田畑にではない。すぐ隣の部屋にいるはずの、雷造に。
 二度のコールの後、雷造の温和そうな声が柔和そうに返事をした。
「お、おい雷造。今からおれの部屋こねぇか」
「急だな。どうかしたのか」
「ああ、あのさ、面白いDVD借りたんだよ。一緒に観ねぇ?」
 さすがに、怖いから来て、なんて言えないからな。口からでまかせだ。DVDか……延滞中の冒険ものがあったな。あれでいいや。
「男二人で、か」
「ばっ、馬鹿野郎。大勢で観るもんでもないし、女の子と観るようなもんでもないんだよ」
「な、なんだよそれは」
 思いつきに過ぎない大嘘に、戸惑う友人。あいつ、何を想像しているのやら。
「いいか、待ってるからな、来いよ」
 有無を言わせず電話を切る。雷造は優しくて気のいいやつだからな、嫌でも来るさ。
 発狂しそうなくらいに長い数分間。身動き一つできずに待ち続けていたおれは、平和すぎるインターホンの音に跳ね上がると、急いで玄関に向かった。傘なんか視認する暇もないように。
 鍵を開けてノブに手をかけて。
「よっしゃあ、おれの勝ちだ」
 勝ちだ勝ちだ。何が勝ちなのか、自分でも知ったことではないけれど、とにかくこれで恐怖ともお別れさ。DVDを観た後は、なんとか言いくるめて泊めるか、泊めてもらうかすればいい。
「よく来たな雷ぞ」
 う、が言えなかった。
 開きかけの扉からは、あの赤い傘が。
 玄関の前には、あの和傘をさした、着物の女性が立っていた。
 顔は傘で隠れているけれど、着物から判断するに、女性だろう。
 恐ろしくて恐ろしくて、声を出すことすらできなかった。どうすればいいのか分からなくて、もはや扉を閉めることすらできなかった。
「孝治くん」
 女性が声を発する。嗄れたようながらがら声。
「わたしを」
 それでも、田畑の声より聞き取りやすい。
 
「わたしを、捨てろだなんて、言わないで」
 
 傘が動いて、隠れていた顔が露わになる。
 そいつは。
 まん丸な目をしていて、頭が取れそうなほどに口がぱっくり割れていて。
 肌は鱗に覆われて、ちょろりと出した舌は二又になっていて。
 手足はなくて、だったらどうやって傘を持っているのかと言えば、片方の目から、いや、目のあるはずの場所から這い出ている小さな蛇が、和傘の柄に絡まっているのだ。
 着物を着た巨大な蛇は、舌をちょろちょろと動かして、笑った。
 おれは。
 自分の喉から噴出する、信じられないほど高い悲鳴を聞きながら、きっと気を失った。
 
 
「あれはな、ヘビノメじゃなくて、ジャノメだよ」
 幾分落ち着いてきたおれに、温厚な顔の友人は笑いかけた。
「そんなことはどうだっていいや。もう、一生触ることはないだろうからな」
 目覚めたとき、時刻は深夜三時を回っていた。最初に見たのは雷造の顔で、この母性あふれる友人は、おれを布団まで運びずっと看てくれていたようだ。
話を聞けば、おれの悲鳴のせいでアパート中は一時大騒ぎとなり、血相を変えて飛んできた大家の婆さんに、雷造は何の責任もないのに叱られたらしい。
雷造は、おれの目が覚めるなり、どうしたんだと尋問してきた。あんまりしつこいので正直に話してやると、そんなの夢だと笑われた。その上、蛇の目の読みかたを間違えていたことを指摘され、もう、ありがたいやらむかつくやら。
「その夢のことだけどさ、傘が出てきたっていうんなら、やっぱり田畑さんのことが気になってるってことなんだろ」
「夢じゃねえって。まあ、気になってたのは確かだけどさ」
「ほら、やっぱりな」
 満足そうな雷造。田畑を振ったと知ったとき、そういえば雷造は怒っていたな。勝手すぎるだろうって。他人のことなのに。
「なんにせよ、さっさと寝ろよな。田畑さんのことは別にしても、そんな夢を見るってことは、風邪をひいてるってことなんだろうからさ」
「だから夢じゃねえって」
「ははは、こりゃあ重症だ」
 重症ってなんだよ。つられて笑うおれを温かい目で眺めると、雷造はゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、おれは帰るぜ。少しは寝ないと明日に堪えるからなあ」
 ああもう今日か。雷造は笑いながら歩いてゆき、少し経ってから玄関のドアの閉まる音が聞こえた。
 再び一人きりになり、静か過ぎる部屋の中、田畑のことを考える。
 さっきは、電話しそびれちゃったな。もう、明日会って直接話すしかないみたいだ。
 こんなおれを、田畑はまだ相手にしてくれるだろうか。
まだ、あの傘を持っていてくれるだろうか。
捨てていなければいいけれど。
 
 
 
 
おしまい