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蛇の目女の怪
雨の日だった。
朝には晴れていたはずなのに、昼を過ぎる頃にはぽつぽつと降り始めていた。天気予報も当たるものだと、その時ぼんやりと思ったものである。
土砂降りではなかったと記憶している。ただ、外を移動するのに傘なしで歩こうという気にはなれないような、そんな降りかただった。
そんな降りかただったものだから、さあ帰宅しようという段になって玄関で立ち往生する学生もちらほらと見られ、田畑もそのうちの一人だった。
田畑菜乃花。眼鏡におかっぱの、飾り気のない女。当時どんな服装だったのかは覚えていないけれど、あの時の彼女にはどこにも目立つところが見られなかったような気がするので、きっと冴えない服装だったのだろう。
今思えば、よくあんなに地味なやつに目をつけたものだよ。当時、彼女のほかにも立ち往生している学生はいたはずで、もっと見栄えのいい女の子だっていたに違いない。それなのにおれは、二度の逡巡のあげく、田畑の横に立って声をかけた。
「傘、ないの?」
なれなれしいと思う。おれときたら普段からこんな調子だ。仲間内で軟派な男呼ばわりされている所以なのだろう。軟派というのは言い過ぎだよな。
田畑は驚いた様子でおれを見ると、一瞬だけうつむいて、頷くようにぴくりと振るえてから、はい、と言った。
蚊が鳴いているのかと思ったよ。
この辺だけは、いやにはっきりと覚えている。化粧の薄そうな顔がおどおどと応答する様が、とても魅力的に見えていたのだ。
「おれの傘、使う?」
朝の天気予報を信じたおれは、律儀に傘を持ってきていたんだよな。折りたたみじゃなくって、杖として使えそうな雨傘。五年間も使い続けたもので、壊れてこそいないものの、年季の入ったシロモノだった。
傘を差し出された田畑は、おどおどとした様子でごにょごにょとつぶやいた。何を言っているのかは分からなかったけれど、おれは遠慮するなよと言って再び傘を差し出した。
「あげるよ。おれは大丈夫だからさ」
◎
あの日と同じだ。
朝から曇っていた空は、昼を過ぎてとうとう泣きだした。今朝の天気予報でも、昼から雨だと言っていた。
「孝治、帰らないのか」
よく通る声。見上げると、肩幅の広い胴体に温和そうな顔がくっついている。
「講義終わってるぞ。寝てたのか?」
雷造はおれを見下ろしながら、笑って言った。どうやら、講義の終わったことに気づかなかったらしい。
「寝ちゃあいねぇよ。空を見上げてたんだ」
「ははは、なんだよそれ。孝治っぽくないぞ」
孝治っぽいってどんなだよ。おれも笑って応えながら、カバンを手に取ると机の上の携帯電話をポケットに突っ込み立ち上がる。ノートなんてとっていない。試験前になれば雷造にコピーをもらえばいいからな。
「おいまさか、傘がないなんて言わないよな。おれはごめんだぜ、おまえと相合傘なんて」
「ちゃんと持ってるよ。おれだって、あんなむさ苦しい思いはごめんだ」
雷造とは、少し前に一つ傘の下に並んで歩いたことがある。おれが、雷造の傘にお邪魔するという構図だ。雷造のやつは持ち前の優しさとでかい図体のせいで、左肩をずぶ濡れにしていたっけ。
田畑に傘をやった、その日のことだ。傘のなくなったおれは、雷造の傘に入れてもらったのだ。傘なしで帰るつもりだったおれを、気のいい友人は呼び止めた。雷造とおれとは、同じアパートの隣室同士なので、なんと帰宅路の最初から最後までを同じ傘の下で歩いてきてしまったのだ。
おれが歩き出すと、雷造の足音がタンタンとついてくる。講義室の入り口付近に設置されている傘置き場の前で立ち止まると、雷造もおれの横に来て立ち止まった。
おれがぼうっとしていたせいだろう、傘はもう数えるほどしか並んでいない。雷造は迷うことなくベージュの傘を取り上げ、おれも自分の傘を取ろうとして、
「おっ」
気づいた。
朱色に塗られた艶のある傘。明らかにビニール製でも布製でもない。紙だ。アリの行列に並ぶカブトムシ並みの存在感を持って、その傘は置き場に突き刺さっている。
「なあ、雷造」
さっさと歩きだしていたらしい雷造は、なんだよと不満な顔をしながらも律儀にスタスタと戻ってきた。
「これって、なんていうんだっけ」
紙の傘のことである。
「おおっ、こんなの生で見るのは初めてだなぁ。えっと、カラカサっていうんだっけ」
「ああ、唐傘お化けのやつな。そっか、カラカサって、もっとボロなんだと思ってたよ」
おれのイメージしていたカラカサっていうのは、白茶けた色をしていて、いかにも安っぽくて薄っぺらいものだったんだよな。だけどこの傘は、いかにも高級そうだ。漆が塗ってあるのかどうかは知らないけれど、こういう色をしていると、伝統工芸品っていうような空気がぷんぷんと漂ってくるじゃないか。
「今どき珍しいよな。これ、おまえのだろ」
これ、というのは和傘のことではなくて、雷造が勝手に抜きだした紺色の傘のことである。布製で、まだ汚れの少ない傘。まさしくおれのものだった。どうやら雷造の中では、もう和傘についての話題は終わってしまったらしい。
「そうそう、ありがとな」
傘を受け取ると、おれは雷造について歩きだした。
手元の傘は、田畑に傘を渡した後に買ったものだ。
当時、おれの持っていた傘はあの一本だけ。傘なしで生活していては雨が降ったときに困るだろうからと、翌日にはこの傘を買っていた。田畑に傘を渡したのは、実を言えばもう買い替え時だろうと思っていたからである。
かなりくたびれてはいたものの、壊れてはいなかったので捨てるのは忍びない。かと言って、あの傘が手元にあったのでは、新しいものを買うべきかどうか迷ってしまう。結局は、新しい傘を買うための、いい理由を作りたかっのだ。
そんなおれの算段も知らず、田畑ときたら何度も何度も礼を言って、嬉しそうに歩いていったっけ。あんな顔を見られたんだから、雨に打たれることなんて大したリスクじゃない。あの時のおれはそう思っていた。
田畑とは、それから一週間もしないうちに再会した。キャンパス内で偶然会ったのだ。先に声をかけてきたのは田畑のほうで、おれはそれまで、あいつが近くにいることに気づきもしなかった。
この間はありがとうございます。それが第一声。おれは、なんのことだか分からなかったんだよな。二言三言話してみて、よくやく傘のことを思い出した。すぐに思い出せなかったのは、最初に会ったときよりも、喋りかたがはきはきとしていたせいなのかも知れない。
彼女は、今度傘を返しますねなんて言うから、気にすんなよ、と、おれはきっとこう言ったんだ。古い傘がいらなかったっていうよりも、おれの渡した傘を、この娘が持っているんだという嬉しさを持ち続けていたかったのだ。
その後のことはあんまり覚えていない。お互いに名前を教えて、電話番号やメールアドレスを交換して。翌日からは仲良くなっていた。
「今日はいやにぼうっとしてるよな。風邪でもひいたんじゃないのか?」
温和な顔が、心配そうにおれの顔を覗き込む。見苦しい顔ではないものの、男に覗き込まれてもあまり嬉しくはない。
「ひいてねーよ。傘を見てたんだ」
「ははは、なんだよそれ。風邪より悪いかもな」
風邪より悪いってなんだよ。笑って応えながら、おれは傘をさした。
◎
バスの中は、濡れた雨傘を持つ学生でごったがえしていた。おれと雷造は席に座ることができず、席の間の通路に立っている。
まったく、どうして金を払ってまで、こんなに窮屈な所で立ちっぱなしでいなくちゃいけないんだ。満員バスや満員電車に乗るたびに、そう思わずにはいられない。雨が降ると車内がじめじめとするから、余計に嫌な気分になる。
だったら車で登下校してやれ。そういう発想がないこともないのだけれど、あいにくと車がない。普通免許は持っているのだけれど、車を買うような金も、駐車場を借りるような金もない。
車があればな。
誰かの傘が足に当たったらしい。やわらかな衝撃と、濡れたズボンの感触が時間差でやって来た。
「あ、すまん」
雷造が、おれの足元を見て言った。足に当たったのは雷造の傘だったということか。
「おい、気をつけろよな。ったく、濡れちまったじゃねぇか」
がたいのいい友人は、混んだバスの中でヘコヘコと謝りだす。しかしすぐにそれが迷惑なことなのだと気づいたようで、今度は周りに向かって、すみませんと愛想笑いを振りまいた。
車があればな。田畑には、何度かそう言ったっけ。
おれと田畑は、一緒にいるうちにだんだんと恋人同士のような関係になっていった。たまに手をつなぐだけの、キスどころか、下の名前で呼び合ったことすらない関係だったけれど、周りから見ればもう立派な彼氏と彼女だったと思う。デートと呼んだことは一度としてなかったけれど、二人で遊びに行くことも何度かあった。
そんな時おれは、車があればもっと遠くに行けるのにな、と冗談めかしていたものだ。そんな冗談を真剣に受け止めて、田畑ときたら遠くじゃなくても楽しいよ、だなんて慌てていたっけ。
またもや誰かの傘が足に当たる。衝撃のあった部分が、やはり濡れている。
「うわっ、ごめん」
雷造だ。
「またおまえかよ」
「カバンがずり落ちてきてさ、それを肩にかけ直そうと思ったら」
「言い訳無用だ」
雷造のジーパンに、濡れた傘をべたべたとぶつけまくった。うおっ、と言いながらでかい身体が跳び上がると、律儀な友人はまたもや愛想笑い。
こうやって、田畑とも傘を使ってばかみたいなはしゃぎかたをしていたっけ。田畑は雨が降るたびにおれからもらった傘を使っていて、まだそんなの持ってたのか、なんて言ってやると、あいつは照れるような喜ぶような、なんとも可愛らしい笑いかたをしていた。
駅前に到着すると、おれは人の波に流されるようにしてバスから降りた。
その時。
バスの中に、和傘の形をした、高級そうな赤が見えた。
なんだ、あの傘の持ち主、同じバスに乗ってたのかよ。どんなやつなのか、見ておきたかったな。
「孝治」
友人の声。
「バスの中に、忘れ物したのか?」
面倒見のいい友人は、いかにもさりげない感じで聞いてくる。
「ああ、いや、そうじゃないけどさ」
バスの中には、もう運転手しかいない。駅に歩いていく傘の群を見ても、その中に赤い和傘は見つけられなかった。
「言い忘れてたけどおれ、今日は美容院に予約入れてるんだわ。だからさ、先に帰っててくれよ」
「そっか。じゃあな、孝治」
床屋派の友人は、駅に向かって歩いていく。雷造が途中で振り向いてもう一度じゃあな、と言うのを見届けて、やっとおれは美容院に向けて歩きだした。バスを降りてすぐの所である。
自動ドアをくぐり傘置き場に傘を入れると、顔なじみの美容師に導かれて最寄りの椅子に座った。
今日はやけに田畑のことが思い出される。例えば、髪型。
おれと恋人もどきの関係になる頃、田畑は髪を伸ばし始めた。おかっぱだったのが肩まで伸びて、最近では肩甲骨あたりまで伸びていたな。
髪型だけじゃない。服装だって、ファッション雑誌に載っていそうなものを着てくるようになったし、眼鏡はコンタクトレンズに変わった。化粧なんてほとんどしていなかった顔はきれいにメイクされ、ささやかなアクセサリーを身につけるようにもなった。性格も明るくなって、生き生きと喋る田畑の言葉は、はきはきとして聞き取りやすかった。
田畑は、どんどん変わっていった。おれと会うたびに、きれいになっていった。
そんな時だ。
おれと田畑との関係が、木っ端微塵になって吹き飛んだのは。
他に好きな子ができたんだ。そう言ったのはおれである。きょとんとする田畑に向かい、おれは続けてこう言った。
だからさ、別れない?
きょとんとしたまま頷いた。初めて会ったときみたいに、震えるような頷きかただった。
お互いにつき合っているという認識があったのか、今となってはそんなことすら分からないけれど、恋人であれ友人であれ、そういう関係がおれの言葉によってぶち壊されたのは間違いない。
少なくとも、おれは田畑に恋していたのだろう。だからあの時傘を渡したのだろうし、二人で遊びに行ったりもしたのだ。
そのうちに、恋人と一緒にいるような錯覚に陥っていたに違いない。だから別れようなんていう言葉が出てきたのだ。
田畑は、きれいな田畑は何も文句を言わなかった。終始きょとんとしたままで、うん、そっか、わかったとだけ言った。
殴られるかも知れない。泣かれるかも知れない。そんなふうに考えていたのは、おれにとって田畑が恋人だったからなのだろう。感情すら見せなかった田畑にとって、おれは恋人ではなかったのだろうか。
振ったのはおれのはずなのに、失恋の虚しさが押し寄せてきた。空虚なはずの心には、絶交の苦しみが満ちていた。
結局、そこから先に立ち去ったのはおれだった。どういうわけか、悔しくてたまらなかった。
帰ってから、寂しくなって泣いた。そんな自分が情けなくて、何度も床を殴りつけた。何事ですか、と下の階の人に怒られた。
「今日は元気がないですね。いつもは喋りっぱなしなのに」
頭を洗いながら、美容師が気安い感じで話しかけてくる。
「そうですかぁ? いやあ、アミちゃんのシャンプーが気持ちいいんですよ」
「あははっ。何言ってるんですかぁ」
バイトのアミちゃんは、笑うと八重歯が覗いてかわいい。歳も近くて話しやすいし、古い言い方だけど気立てもいい。
「嘘じゃないって。自分でやる五倍は気持ちいいもん」
「はいはい、ありがとーございます」
だけど、田畑よりもきれいな顔立ちをしているアミちゃんに対しては、恋愛感情を持ったことがない。客と美容師だからというよりも――そう、田畑はなぜか、魅力的だったのだ。
髪を切り終えて自動ドアに向かう。傘を取ろうと立ち止まる。
そこで。
また、赤い和傘。
閉じてあるその傘の真ん中は赤ではなく白に塗られている。そういうデザインなのだろう。
なるほど、駅に向かう群の中にいなかったわけだ。おれと同じで、美容院に向かっていたんだからな。
ほんとうにそうなのだろうか。
あのバスから降りて、おれより後に美容院へ向かった和傘なんていただろうか。いいや、いない。おれがバス停から歩きだしたのは、バスから全ての客が降りた後だったのだから。
おれは途中で、和傘を追い抜いたのだろうか。そうでなくてはおかしいだろう。ここに来た時には、こんなに目立つ傘なんてなかったはずなのだから。
悪寒。
店内を振り返る気にもなれなかった。
おれは紺色の傘をひったくると、自動ドアが開ききるのも待たずに駆け出した。