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「たんぽぽ」
店頭にちょこんと座った少女から、私は目が離せなくなってしまった。
表情は人形的であるにしろ、だからこそ甘く香るようなかわいらしさを持った女の子――そう、少女の姿をした人形である。
細くてつややかな美しい髪。きめ細かくて瑞々しいきれいな肌。私の中に、まるで綿毛のようにふわりと舞い降りた可憐な少女は、しかし残念なことに、分厚いガラスの向こうにいるのであった。
ああ、触れたい。この腕の中に抱きしめたい。
私は沸き出でる欲望に耐えきれなくなって、その店に足を踏み入れていた。
「あの人形、いくらです?」
げっそりと痩せた、店主と思しき色白の男は、ぎょろりと目を剥いて「人形、といいますと」と首をかしげた。
「ほら、ショーウィンドーに飾ってあるでしょう」
「ああ、あの子ですか」
店主は目を細め、嬉しそうにケタケタと嗤いだす。
「あの子は売り物ではないんですよ。ただ、たくさんの人に見てもらいたくてね……。かわいいでしょう」
私はうやむやな返事を口の中に転がしながら、大いに落胆した。それでも、売り物ではないという言葉には、なるほど納得がいく。
確かに、彼女のことをお金で手に入れたって、本当の意味で私のものになったとは言いがたいだろう。
翌日、私の足は当然のようにあの店へと向かっていた。もちろん、彼女に会うためである。
彼女は私と出会ったときから、まさに今まで私の心の中から消えてはくれなかった。一瞬たりとも、寝ても覚めても、夢の中でさえ。
これは、他人からしてみればおかしなことなのかも知れない。なにしろ私自身、たかが人形一体にこれほど魅せられてしまったということが、不思議でたまらないのだから。
それでも――。
店の前に昨日と同じ姿をみとめると、私の心は春の空のようにきらきらと晴れ渡った。
白くつやのある彼女の肌は、彼女に魅せられるのも無理はないのだと執拗に訴えかけ、きらめいてさえ見える彼女の双眸は、彼女のことを「たかが」とは言わせないほどの美しさを誇っているのであった。
私はあまりの愛おしさに目を細め、ガラス越しに微笑みかけていた。彼女に反応はない。彼女は人形なのだから。
「今にも、話しだしそうでしょう」
いつの間にか、隣にいたのは痩せた店主である。
「私が店から出てきても気づきやしない……いや、気にも留めなかった、というところでしょうか」
店主は短く嗤うと、「たいそうなご執心ぶりだ」と言って再び笑った。
「執心だなんて。そんなことはありませんよ」
私は早口に言い返し、店主の方へ逸れた視線を彼女の方へ戻そうとした。しかし店主は、
「なあに、隠すことはない」
大声で言って、私の視線を無理やりにたぐり寄せる。
「昨日、この子が手に入らないと分かったというのに、未練がましく今日もやって来た」
ケタケタという耳障りな笑い声。
「恥ずかしがることはありませんよ。あなたのような人は、珍しくない」
色白で、見るからに不健康そうなこの店主ときたら、見た目によらずずいぶんとよく喋る。一つ一つ言いふくめるような口調の中には、ふてぶてしい自信が満ちているようだ。
「この子の値段を聞きに来た人は、みなさん次の日からは毎日この子に会いに来ます。よっぽど夢中なんでしょう、そういう人どうしがここで鉢合わせても、お互い見向きもしません」
店主のくぼんだ目が、ゆっくりとウィンドーの方へ向けられる。
「あなたも、よっぽどこの子に微笑んで欲しいようだ。だけどね――」
ケタケタ。私はなんだか気味が悪くなって、急いで視線を彼女へ逃がした。
「だけどね。この子は私にしか、心を開きはしませんよ」
すると彼女は、ほんのわずかに――
わらった。
彼女は店主と目を合わせ、笑ったのだ。
私にはそう見えた。
そんなことのあった次の日からは、店主の言ったとおり、私と彼女との日々がはじまった。
いや、私の、彼女のための日々と言った方が正しいか。なにしろ、私がガラス越しにどんなに微笑みかけても、彼女は瞬きすらしてくれないのだから。
だけど私は、それでもかまわないと思っていた。彼女は目の前にいるだけで私のことを幸せな気分にしてくれるのだし、なにより私は、彼女の笑顔の虜になってしまっていたのだ。
私は、彼女が笑うことを知ってしまった。だから、いつか彼女が私のために微笑んでくれるときのことを考えると、彼女のために日々を費やさずにはいられなかったのである。
日が経つにつれ、気づいたことがある。彼女と見つめあう私の周りには、見慣れた顔ばかりが集まってくるということだ。
会社員風の男に、腰の曲がった老婆。頭の悪そうな若い女に、よく肥えた汗臭い男。いちいち数える気はないけれど、彼女の前に集まる人間はおそらく十人を超え、顔ぶれも老若男女様々である。
その誰もが、一様に彼女のことを見ている。それも、ただ見ているだけではない。彼らは皆、酔ったような顔つきで、熱のこもった視線を彼女のほうへ投げかけているのだ。
花の美しさを持っている上に綿毛のように気ままな彼女は、私以外にもこんなに大勢の人間を虜にしていたのである。競争相手がいるという事実は、私の焦燥感を掻きたてるには充分すぎた。
これを機に、私は彼女と過ごす時間を従来の何倍にも増やした。他の者に彼女の笑顔を、心を先取りされてはたまらない。
こうして一週間ほどの期間が、彼女によって埋め尽くされた頃だろうか。
この頃、私の生活の中心はやはり彼女でしかありえなくて、わずらわしい諸事情によりどうしても彼女と一緒にいられない時は、次会ったときに彼女と話す内容ばかりを考えていた。
そんな私の想いが、やっと通じたのだろう。彼女はとうとう、私に心を許しはじめたのである。笑顔を見せた時以外はずっと同じだった表情に、ほんのわずかではあるけれど変化が表れたのだ。
優しい顔になっている。
彼女の目つきが変わっている。それこそ、前日の写真と比べてみなければ分かるはずもないであろう小さな変化ではあるけれど、幸いにも私の目には、従来までの彼女の姿が克明に焼きつけられていた。
私は嬉しさのあまり、絶叫しそうになった。それでもすぐに、喜ぶのはまだ早い、と思い留まる。私は彼女を手に入れるための、たった一歩目を踏みだしただけではないか。
その日私は散々に彼女と見つめあうと、素晴らしい未来を約束して家路についた。
これが、私が彼女と過ごした最後の時間になる。
翌日私が店の前まで行くと、彼女がいたはずの場所には、黒くどろどろとしたものが小山になっているのだった。彼女を探しに店の中へ入ってみると、どうしたものか店主が泣き崩れている。
「どうなさったんですか」
彼女の居場所を聞きたいのは山々だったけれど、この状態の店主が答えるとは思えなかったのだ。
店主は赤くなった顔をゆっくりと上げ、普段よりも更に病的な目つきで私を見据えると、「あの子が、あの子が」とうわ言のように繰り返しながら私にすがりつこうとする。
死霊のようになった店主を払いのけると、店主の倒れる音を背中に聞きながら私は再びウィンドーに目を移した。
黒く有機的な小山には、人形の頃の面影がうっすらと残っているように見える。
「かのじょは」
唇が震えるのを感じた。倒れたまま起き上がろうとすらしない店主を見下ろすと、私は声を張り上げる。
「あの、人形は」
「あの子は枯れた。枯れたんだよ」
泣き声とも笑い声ともつかない響きが、店内を軋ませた。
「枯れてしまったんだよ、私が見ている前で」
一度声を発したら、言葉を紡がずにはいられないのだろう。流出し続ける悲鳴は暗い店内に蓄積されて、私の視界を滲ませる。
私はとうとう恐ろしくなって、店から抜け出した。何が恐ろしいのかも分からないままに、私は走っていた。
こうして彼女はいなくなってしまったのだ。
あの黒いものが彼女だったのか、それとも彼女は別の場所へ行ってしまったのか、私にはわからない。なにしろ一年近くも前のことである。今ではあの店も店主も姿を消してしまい、そこには当然彼女の姿も、黒い物体もないため、真実を確かめる術さえない。
店主とは半年ほど前に一度、道で逢ったことがある。おそらく彼は私のことなど覚えていなかったのだろうし、すぐそばを通る私のことを認識していたのかさえわからない。
店主は、彼女を失ったあの男は、まるで魂でも抜けてしまったかのように死人の顔をうなだれて、夢遊病者の足取りで私の前を通過していった。
きっと彼女は、彼の心の奥深くまで、太く強く根ざしていたのだろう。彼女がいなくなるということは、彼の全てが根こそぎなくなってしまうことと同義だったのだろう。
私はそう考えるたび、ほっと胸をなでおろす。
あれ以上彼女にのめりこめば、私も店主と同じようになっていたに違いないのだから。彼女に人生を食い尽くされないでよかった。確かに彼女の愛おしい姿は未だに心の中で輝いているけれど、あんな人形一体に心を奪われていただなんて、今となっては信じられない。
彼女がいったいなんだったのか、果たして本当に人形だったのか、思い返せば疑問は尽きないけれど、彼女のことを忘れることがなによりも大切なことだと、私は自分に言い聞かせてきた。
平穏で、正常な生活。
彼女はいないけれど、とても充実した日々。
最近の私は、そんな毎日に喜びを感じて生きてきた。明日からも、私の中から彼女の影は薄れ続けるのだろう。
もう、夢の中にすら彼女の姿はない。
愛らしい笑い声に目を覚ました。
重い身体を持ち上げると、ぴたりと声は止む。不吉な予感に振り返ると――。
彼女。
きらめく瞳が私のことを、じっと見ている。
私は
戦慄した。
あまりの愛おしさに。
彼女が、来てくれた。
私は嬉しくなって、悲鳴をあげた。
「そうだ」
ひとつの良い考えが、水泡のように浮き上がる。
そうだ、みんなにもこの子を見せてあげよう。
私は目覚めたそのままの姿で彼女のことを抱きかかえると、靴をひっかけて家を出た。
街は
彼女を抱きかかえた人間で溢れていた。
おわり