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コエガ キコエル
この部屋を出て行こうと思う。
小さいながらも一人暮らしには充分すぎるほどの広さを持つこの部屋に、何か不満があるわけではない。かといって、この部屋の家賃を払えないほど金銭的に困っているわけでもない。
アパート二階の角部屋となるこの場所は、近所に高層建築物などもなく日当たりは良いし、隣の部屋も真下の部屋も空室となっているらしく、静かな場所が好きな私にはもってこいの環境である。
それでも私がこの部屋を出て行こうとしているのは、何のことはない、ただ単にここではないどこかに行きたいというだけのことだ。この部屋が大豪邸だろうが屋根も床板もない廃屋であろうが、私の決断に変わりはなかっただろう。
私は息を一つつき、手袋をはめた手に一瞬だけ目をやると、たいして使い込まれてもいなさそうなドアノブに手をかけた。
「ちょっと、待ってよ」
声が聞こえる。
この部屋には私以外に、声を発するものなどはないはずなのに。私は背筋に突き刺すような冷たさを感じ、反射的に振り向いていた。
何もない。当然だ。声を発することのできるものなど、私に見える範囲では何もない。だいいち、部屋中を確認してから五分と経っていない。
皮製の手袋がぎうぎうと鳴き声をあげる。私の拳は無意識下で握り締められているらしい。私は握っていたドアノブからゆっくりと手を離し、慌てて靴を脱ぎ捨てると音をたてないようにして再びフローリングに足を擦らせた。
「ああ、よかった。戻ってきてくれたんだ」
聞き覚えのあるような、ないような声。洗面所の扉を開け、カーテンを開け、ベッドの下を覗き込み、ゴミ箱の中さえをも覗き込んでみるものの、声を出しそうなものは見当たらない。
泣きそうになった。恐ろしいのかも知れない。どんな声を上げたくなったのかはわからないけれど、私は声が出そうになるのをこらえて、目的もなく辺りを見回した。
「お願いしたいことがあったんだ。ほら、この散らかった部屋を見てごらんよ」
足元から聞こえるような気もする。確信は持てない。部屋の散らかり具合などは、わざわざ指摘されなくとも認識はしていた。
「きみが散らかしたって言っても、間違いじゃあないよね。どうかな、出て行く前に片づけておくっていうのは」
本棚から落ちたらしい、薄い文庫本を持ち上げてみる。声を出しそうなものは転がっていない。拾い上げた文庫本を本棚に戻してみると、部屋の惨状がいやにやかましく感じるようになった。
片づけてみるのも、良いかも知れない。
散乱した書籍類を全て本棚に戻すと、今度は机の上に横たわるコーヒーカップを流しに置き、こぼれていた黒い液体をティッシュペーパーに染み込ませた。
なるほど、これは片づけなくてはいけない。どういうわけだか、そう思った。どうして今までそう思わなかったのか、理解できなくなった。
小さな部屋だ。すぐにきれいになる。
*
今日こそは、この部屋を出て行こうと思う。
私の手によって美しく片づいた部屋に、名残がないわけではない。部屋の隅に小さなクモの巣を見つけたからといって、それを理由に部屋を棄てるほど私が神経過敏なのかといえば、そんなこともない。
部屋の片づけを済ませた私には、もはやこの部屋に留まる理由などはない。声の主を見つけることはできなかったけれど、そんなことは既にどうでも良いことだった。日付が変わり日が昇るのを許してしまったということが唯一の反省点ではあるけれど、一睡もせずに部屋を片づけたという事実には、我ながら酔い痴れるほどの達成感を感じていた。
私は伸びをして、何やら久しぶりに見るような気のするドアノブに手をかけた。
「待って。忘れ物があるよ」
また、声が聞こえる。
どこかで聞いたような、どこにでもあるような声。手袋の中がどうしようもなく湿っているのは声に驚いたからではなくて、何時間も手袋をはめたままにしているせいだ。
私は純粋に、何を忘れているのだろうと思い振り向いた。案の定、声を発するようなものは見当たらない。
「今日は不燃ゴミを出す日だよ」
目からうろこが落ちるような、そんな心持だった。私はドアノブを握っていた手を開き、靴をぞんざいに脱ぎ捨てると、急ぎ足でフローリングの床を蹴った。気持ちが悪くなって手袋を脱ぎ捨てると、汗のせいでしわくちゃにふやけてしまっている私の手が露わになった。
「せっかく片づけたんだから、ゴミを出すぐらい、たいした手間じゃないよね」
まったくもってその通りである。冷蔵庫の横にあった専用のゴミ袋を持ち出して、分別という概念をなくしてしまったらしい混沌としたゴミ箱の中から、不燃とされるものを入念に探し出して拾いあげていった。
ゴミ箱に手を入れるたびに、指先には冷たい感触が伝わってくる。その感触の原因がコーヒーを吸い込んで黒く染まったティッシュペーパーなのだと分かったとき、私はどうしようもなく忌々しい気分になってしまった。
冷蔵庫の張り紙によれば、可燃ゴミは明日にならないと持っていってもらえないらしい。
*
この部屋を、今日こそは出て行こうと思う。
一度はゴミ捨てのために部屋を出たけれど、私はこの部屋に帰ってきた。可燃ごみを捨てに行くためである。謎の声の主は不燃ゴミの中にはいなかったようで、昨日私が部屋に戻ってくると、声は「帰ってきてくれたんだね」と出迎えてくれた。
今日、ゴミを出しに行けば、ゴミ箱の中は空になる。そうすれば、いよいよ私にはこの部屋に留まる理由がなくなる。新たにゴミが出ないよう、炊飯器に残っていたお米を食べて、水道水を飲みながら私は空腹をしのいでいた。
新型のパソコンやコマーシャルで見た覚えのあるテレビは、置いていくには惜しい代物ではあるけれど、それらを運び出すほどの余裕が私にはない。
棚に置かれた写真立てや机に置かれた携帯電話に手を触れないのは、そもそもそれらが私のものではないからだ。
私はあらかじめ可燃ゴミを詰め込んでおいた専用のゴミ袋を持ち上げると、既にしわの取れた手でドアノブに手をかけた。
「また、戻ってきてね」
声が聞こえる。戻ってきて、ということは、声の主はこれから捨てられる可燃ゴミの中にもいないのだろう。
「忘れ物、まだあるから」
ドアノブを捻り、扉を押し開ける。早朝特有の澄んだ空気の中で階段を駆け足で下りると、ゴミ捨て場に袋を置いて来た道を引き返す。忘れ物には心当たりがあった。
玄関の扉を開けて靴を蹴飛ばすようにして脱ぎ捨てると、足音をたてながらフローリングの床を歩く。整然と片づけられた部屋の中央には、朝日を浴びてぎらぎらと輝くサバイバルナイフが突き刺さっていた。
ナイフを引き抜き、刃先を眺め、私は得心した。声の主が分かったのだ。
これで何も、思い残すことはない。これでやっと、この部屋から出て行くことができる。
「待って」
声が聞こえる。普通に考えれば、この部屋で声を発することができるのは私だけのはずである。
「そろそろ、人通りが多くなるよ。夜まで待ったらどうかな」
それもそうだろう。私は人ごみが嫌いだ。
*
いよいよ、この部屋を出て行こうと思う。
日付が変わる少し前。今、この部屋から出て行かない理由などはどこにもない。この部屋に未練などはないし、空になった炊飯器をはじめとする家財道具には、少しの思い入れもない。
私の家ではないこの部屋の中、私の所有物は現在身につけている衣類と、サバイバルナイフだけだ。
「もう、出て行くの」
声が聞こえる。私は靴を履きながら振り向いて、部屋の真ん中に倒れている死体を一瞥した。
死体が喋るわけもなく、したがって死体の問いかけに応えてやる必要もない。私は出て行くよ、と言う代わりにドアノブに手をかけた。今日一日水しか飲んでいない私の身体は、声を出すことすら嫌がっていた。
「まあ、いいや。警察が来るまで、きみを引き止めることができたんだからね」
玄関のドアが、私が力をかける前から動いていく。ドアノブを握っていた私は、バランスを崩して転倒してしまった。驚きと空腹感とが相まって、私には立ち上がる気力すら沸いてはこなかった。
声が聞こえる。
「おまえがやったのか」
当然だ。相手は生身の人間なのだから。
幕。